女性自身2004年10月19日号「シリーズ人間」No.1730
「虐待された子ども」として、「虐待した母親」として、
呪縛の”連鎖”を断ち切りたい!
心が閉ざされた母と子を救う
”音楽療法カウンセラー”岡田ユキさん(43)

 誰も家族は選べない。 親から子へ、そして孫にまで「虐待」が受け継がれていく家族が、もしもあったとしたら……。まるで、古くからのしきたりのように。

「おまえは家族の捌け口だから、我慢しろ」と過酷なまでに親きょうだいに虐げられ、自殺まではかった女性の決意。

 今こそ、忌まわしき『過去』に闘いを挑む。

  幼い日を思い出すときのあの感じ、ふんわりとした優しさ、温かな体温、怖いものなど何もない、柔らかな毛布にくるまれたような、あの感じ。

 イメージは母。

 愛されて育った人なら誰もが心の底に持っている感情だ。それが岡田ユキさん(43)の心のなかには見当たらない。

「そうやねぇ。私は覚えていないんですけど、ちっちゃいとき、都はるみさんが私を抱いて、子守歌を歌ってくれたそうなんです。はるみさんの実家が、私の家の近所だったんですよ」

 そう言って肩をすくめた。くすぐったい気分はある。しかし、その優しさと重なるのは、母ではない。

「物心つく前から、母は私を叱ってばかりいました。『アホや』『がさつや』『我慢のできひん子や』『何もまともにできひん子や』って、そんな言葉ばっかり……」

 なぜ、そんなに叱られるかわからなくて泣きだすと、「泣くのはやめなさい」と、ぶたれる。さらに泣くと、「うるさい!」と、もっとぶたれた。大声で泣くと、タオルで猿ぐつわをまされた。

 幼児虐待―。今では、そうハッキリ認識できるものの、ユキさん自身、数年前までは自信がなかった。

 両親のしたことはしつけだったのか、虐待なのか?

 職業は歌手だ。心地よく響くハスキーボイス。人を癒すその声で、音楽療法家としても活躍している。教育カウンセラーの資格を取り、楽しく心を癒すポピュラーミュージックセラピーも立ち上げた。

「今は歌手活動、執筆活動、音楽療法などのボランティアが3分の1ずつの生活かな。でも、最近、子どもの虐待事件が本当に多いでしょう。

 虐待を受けた当事者として、また、子どもに手をあげてしまった虐待の体験者として、もっと当事者の気持ちを、みんなに知ってもらわなアカン思ったんです。私もどこかでこの連鎖を断ち切りたいと、ようやく前に向かって動けるようになりましたから」

 4年前、自伝『みにくいあひるの子供たち』を上梓し、今年7月、小冊子『虐待死をまぬがれて』を発行。それを持って、子ども家庭支援センターなど行政窓口を回っている。

「ただ、まともに親に愛されて育てられた方々にとって、私の体験談は大変恐ろしく、気分も暗くなるから、耳をかたむけてもらえないという傾向もあるんですよね」

 ユキさんがポツリと言った。あなたは目をそむけずにまっすぐに、受け止めてくれるだろうか? 彼女が淡々と顔色も変えずに語る、その壮絶な虐待の日々を。

 小学生のとき兄から性的虐待を受ける。しかし、母は無視した

  生まれは京都市西陣。父親(75)は、西陣織の糸を扱う整経業に携わっていた。

 伝統工芸師にも認定され、仕事熱心な父親と、それをかいがいしく手伝う母(74)。7歳上と5歳上の兄は学業優秀。家からはいつもクラシックが流れ、近所もうらやむ絵にかいたような“よい家庭”だった。

「でも、家の中には、まったく違う世界がありました。何かというと『世間の目』『近所の手前』。それが両親の口癖でしたから」

“しつけ”は当然厳しかった。 寝起きが悪いといっては叱られ、味噌汁をこぼしたと叱られ、お菓子を食べすぎたからと叱られた。手が出ることもしばしばだった。

 兄たちも冷たかった。たまに一緒に遊んでくれても、最後はこう言って罵った。

「アホ」「グズ」「何もまともできひんのやから」

 ユキさんを家の柱にくくりつけ、両親も一緒になって娘を取り巻いて楽しそうに騒ぎ立てる。「アホ」「グズ」

 5人家族のなかで、ユキさん一人、他人のようだった。いつも疑問だけが残った。

「なんで、叱られるんやろ。なんで私ばっかり、ぶたれるんやろ」

 思いあまって相談した次兄は、平然とこう言った。

「気にしたら、しんどいだけやから、自分が損や。おまえは家族の捌け口なんやから、我慢せなアカン」

 家族の捌け口―。それがユキさん家族の人間関係を維持する基盤だったのだ。

 こんなこともあった。近所の家のお姉さんが、幼かったユキさんの髪にリボンを結び、薄化粧をさせてくれたときのことだ。

「かわいくなったね。お母さんに見せてあげて。きっとお母さん、喜んでくれるよ」

 そう言われて、家に帰ると、母親は突然、逆上し「いやらしい!」と、叫びながら大声で父親を呼んだ。

「お父さん、見て! まぁ、なんていやらしい」

 汚れたものを見るように、娘を指さし罵る母。あまりの母親の剣幕に、戸惑い気味だった父親も同調して娘を叱った。叱責は、やがて暴力へとエスカレートする。

 気の弱い父だった。父親に、母親が辛く当たると相談したこともあるが、父は母を擁護するだけだ。

「それはおまえが同性の母親に嫉妬しているだけなんや」

 悪いのはいつもユキさんだった。そんな家族のなかで事件が起きる。

 ある日、寝ていたユキさんは、体のおかしな感触で目が覚めた。長兄が布団に入ってきて、彼女の体を触っている。それはまだ、初潮も迎えていないころのことだ。

 ふだんとは別人のように優しい声で、長兄は囁いた。

「ここは痛いか? 気持ちはどうや?」

 体をすり寄せてくる兄の行為の意味もわからず、ユキさんは抵抗もせずに身を任せていた。性的虐待のあと、兄は命じた。

「このことは、絶対に誰にも言ったらあかん」

 細かい記憶は、ところどころ欠落している。

「無意識に忘れようとしているんでしょうか。覚えているのは、母が私の下着を洗濯しようとして、その跡を見つけて『あんた、ケガしたんか?』と聞いたことだけ。『ううん』『そうなんか』。会話はそれだけでした」

 秘密を持ち続けたまま中学生になり、ユキさんは理解した。兄のしたことが、いかに不幸で、忌まわしいことだったかを。

 悩んだ末に、勇気を振り絞って母親に相談した。母親ならわかってくれる。そんな期待があった。ところが、母から返ってきた答えは、信じられない言葉だった。

「うそばっかし。お兄ちゃんはそんなことしぃひん。もし、そんなことがあっても、お兄ちゃんやし、いいやん」

 そして、こうつけ加えた。

「もし、本当やとしても、お父ちゃんには絶対、言うたらあかんで」

 高校中退で「世間体が悪い」と外出禁止に。自ら手首を切った

  中学時代のユキさんは、表面的にはソフトボール部で頑張る元気な少女だった。そして、歌うことが大好きだった。

 歌うと悲しい気持ちが消えていく。家で受けた辛い仕打ちも忘れられる。それは幼少時の数少ない愛情体験のひとつが、温かな胸に抱かれて聞いた都はるみの子守歌だったことと無縁ではあるまい。

 歌手を目指して、はるみの実家のポストにデモテープと、

「はるみさんの事務所の人に聴いてもらいたい」

 と、書いた手紙を入れたこともある。しばらくすると、はるみの父親が訪ねてきた。

「あんたのテープをはるみに渡したんや。東京にある事務所が“上京しておいで”って言うてるんやけど」

 天にも昇る気持ちだった。 しかし、そんな大きなチャンスも結局、両親によってつぶされてしまう。

 父親は吐き捨てるようにこう言った。

「何がデビューや。そんな声では歌手にはなられへん」

 高校で、キレた。ユキさんは、少し不良になった。反抗心ばかり湧いてくる。喫茶店でタバコ。女暴走族クレオパトラに加入。

「みんなは『YAZAWA』のタオルを肩にかけて。私はそれすら拒否してツッパってた」

 そう言って笑った。

 高1の終わりに無期停学。高2で退学。妊娠した友達に、看護師の先輩を紹介しただけだったが、それが退学理由になった。

「学校に一緒に呼び出された友達の親は、まず、我が子をかばう。でも、うちの親は『うちの子が悪い』と、最初から平謝りです。退学もすんなり認めてしまいました」

 退学後は、家から出してもらえない日々が続いた。世間体が悪いからだ。

 ある朝、母親が、ユキさんの顔をまじまじと見つめてこう言った。

「昨日、あんたの寝顔をお父ちゃんと見てて、よっぽどタオルで首、絞めて殺そうかって、話したんよ」

 それを聞いたとき、ユキさんは悲しいとも思わず、怒りさえ湧かなかったという。

「そうか、死ぬいう逃げ道があったんやと思いました」

 数日後、鎮痛剤を大量に飲み、手首を切った。

「でも、翌日、目が覚めたら、死んでいなかったんですよね。腕は血で真っ赤に染まっていたんですけど、私は腕を布団から出し、手首を頭上に上げていたので、血が止まって切り口がカラカラに乾いていたんです。いつも母に『布団を汚すな』って、うるさいほど言われていたので、自殺するときも、それを律儀に守っちゃったみたいです」

 笑った顔が寂しそうだった。それでも「死ななくて、よかった」と思えたユキさんは、強い人だ。そのとき、まだ、ユキさんは16歳―。

 自殺未遂後、家を出て、デパートの寮に入って働いた。仕事は洋服の販売。成績優秀でデパート内のブティックを任され、8年後には自分のブティックを持つまでになる。

 その間に結婚し、長男をもうけたが、7年ほどで離婚。夫からはDVを受けていた。

 仕事で成果が上がっても人間関係がうまくいかない。それは、彼女の心の底に潜むトラウマのしわざだということに、そのころのユキさんは、まだ気づいていなかった。

 離婚後、ユキさんが自立するために最も大きな武器になったのが、歌とその声だった。

 31歳でNHKのオーディションに合格。ハスキーボイスが、ジャズシンガー向きだとスカウトされ、彼女はプロのシンガーになった。中学時代の夢がここで叶ったのだ。

「だいたいこの声って、泣くとさるぐつわを噛まされた、虐待のおかげなんですよね。大声を出せば、近所の人に聞こえて止めてもらえる。だから、さるぐつわしたまま大声を張り上げているうちに、嗄れていたんです。クラシック好きの父や母が大嫌いな声。これが今では、人さまを癒す声と言われるんですから」

 何が幸いするかわからない。どんなに過酷な日々にも音楽があった。好きなことに出合えたこと。それがユキさんの強さの秘密だ。 

息子のしつけ方がわからない。

ただ叩かれ続けて育ったから……

  息子を連れて上京すると、ホテルやクラブで深夜2時まで歌って、生計を立てた。無我夢中の生活が続くなか、ユキさんはふと、息子の変化が気になった。

 学校でイジメにあっていたようだ。小学校2年のときはちゃんと言えた九九が、3年になってできなくなった。チックの症状が出始めていた。

「そこで初めて気づき始めるんです。私の子育て、どこか変かなって。私は、口より先に手が出るタイプ。ごく普通のこととして、息子を叩いていたんです。私もそうされてきましたから」

 叩いても叩いても、息子はまとわりついてきた。それが、彼女には煩わしかった。

 お祭りの福引で当たったガラス細工を割ってしまった息子に、小言を言い続けたこともある。しょげ返る息子にさらに腹を立て、壊れたガラスを自分で拾わせた。

「その姿を見て、なんてひどいことを言ったんだろうって、私自身思っているんです。でも、どうしていいのかわからなかった。普通、母親やったら『ケガなかったか?』って、聞いてやるのがホントや。それをなんで私は言えへんのやろ? って思うんです。そういうことを何度も繰り返すうちに少しずつですね。私が親からされたことは、この子に繰り返したらアカン。そう思えるようになりました」

 あるとき、京都の母親から電話が入った。ムシャクシャすると、ストレスをぶつけるために、母はよく東京の彼女に電話をしてきたという。

「おまえのことを心配していたら、階段から落ちてケガしたわ。家にいなくても心配させる悪い娘だ。謝りなさい」 いつものことと、ユキさんが謝っていると、息子が不思議そうにこう言った。

「どうして謝るの? おばあちゃんが自分で階段から落ちて、どうしてお母さんのせいなの? 僕が学校でケガをしても、お母さんのせいじゃないでしょう? おばあちゃんの考え方はおかしいよ」

 家族のなかで植えつけられた“常識”は、自分ひとりでは気づけない。小学生の息子が、それを教えてくれたのだ。

 ユキさんが感じていた親への反発の正体が、しだいに形になっていった。

「思い返せば、16歳で家を出るとき言われたのは『帰ってくるときは制服で来い』でした。最初はお給料が月3万円。仕方なくお金を借りに行くと『好きで出て行ったあんたに貸すお金はない』。挙句の果てに母なんて……」

 ユキさんは言い淀む。ひとつ大きく息を吐いて、続けた。

「体を売ってお金を作ればいいって、そう言ったんです」

 言われたときは、驚いただけ。悲しかっただけだ。

 しかし、30歳を過ぎ、自分の息子に普通の常識を教えられ、友人知人の話を聞くうち、両親が間違っていると思えるようになる。なぜ虐待するのか、その心理を探ろうと、いつしか両親の生い立ちを聞き出すようになっていた。

 父親は、幼少時に母を亡くし、実の父親から虐待されて育った。食事も与えられず、兄弟の一人は餓死している。

 母親の実家では長兄、次兄が次々と出征することになり、女性を知らないまま戦死したらかわいそうだと、長男と長女、二男と二女を関係させようとしたことがあった。

「母は三女で末っ子でした。この話をあとで聞いて、母は姉たちをうらやましく思ったそうです。実際、私が息子を産んだとき、母が自分で言ったんです。『お兄ちゃんはかわいいから、よく性的なことをして遊んであげたんよ。あんたも、そうすれば育てやすいよ』って」

 母親に罪の意識はない。長兄は芸大に入学し、留学も果たした自慢の息子だった。

「自分の育て方は正しかったと、母は得々と話すんです。でも、結局……。兄が私に性的虐待をしたのも、母が原因だったことになりますね」

 虐待は、連鎖していた。祖父母の代から両親へ、兄へ、そしてユキさんへと。

 『仕返し』するしかなかった。虐待の連鎖を断ち切るには!

 「まるで、ひとつの映画を観終わったように悪夢が過ぎ去り、私にとって本当に新しい人生が始まっているんです」

 家族の謎が解けた今、ユキさんは言う。ちょっと早口。明るく元気な関西ノリのおばちゃんだ。

 虐待と裏切りに貫かれた、過酷な半生を送ってきた人には、とても見えない。

 4年前の自伝の生原稿は出版前に、兄にも両親にも送ったという。

「謝罪してほしい。そうでなければ、実名のまま出版する」

 と書いた手紙を添えて。

 ユキさんにとって、それは最後の賭けだった。

「私はまだ、どこかで両親を欲していたんですね。両親にも兄にも、わかってほしかった。そして、『こんなに追い詰めてしまって、悪かった』という言葉を、両親に期待していたんです」

 しかし、両親からも兄からもなしのつぶて。ここまで闘っても、親からは何の反応ももらえない、興味すら持ってもらえない……。その悲しみから立ち上がり、トラウマと決別するために、ユキさんは出版に踏み切った。

 本が全国に出回ると、いきり立った両親から、怒りの電話が入り始めた。留守番電話にしておくと、電報が来る。出版社には出版差し止めの内容証明が送られてきた。

 そのすべてを今度はユキさんが無視する番だった。

「自伝を読んだ人のなかには『これは家族への仕返しですか?』と、聞く人がいます。私は『はい』と、答えます」

 辛くないわけがない。それでもユキさんは凜と背筋を伸ばして秋晴れの空を仰いだ。

「去年の暮れ、父がガン手術で入院するという話を聞いたとき、冷酷かもしれませんが、『あっ、そう』という感じだけでした。他人ごとなんですね、もう、私にとっては。改めて、自分の強さに驚きました。これでやっと、私は両親の虐待の呪縛から解かれたと、そう思っています」

 そこまで自分を強く持ち、両親を拒否しなければ、虐待の連鎖は断ち切れなかった。 とはいえ、心の隙間に吹き込む秋風を繊細な彼女が感じていないはずはない。

「電話や電報ではなく、東京まで出向いてくればいいじゃないですか。ああ、たぶん、私は、それを期待していたのかもしれませんね。でも、結局、両親は、私に会いにこようともしなかったし……」

 空を見上げたままだった。 心の闘いは、ようやく最初の大きな峠を越えたばかり。頂上はまだ雲の向こうだ。

 自伝出版後、父方の伯母夫妻が、10数年ぶりでユキさんに会いにきた。自伝を読んでのことだった。

「長い間、苦しい思いを乗り越えてよく頑張ったね。弟をどうか許してね」

 伯母が父の代わりに謝ってくれ、理解してくれた喜びは、ユキさんの大きな支えになっている。息子以外では初めての肉親からの情。そして、愛だったのだから。

 現在、ユキさんは問題を抱えた子供たちを自宅で何人か預っている。目標を見つけさせ、自立を助け、巣立っていく姿が頼もしい。18歳になる息子も書店で働き始めた。

 暗い顔で音楽セラピーに訪れた人の顔が、彼女の歌に合わせて踊ることで、笑顔に変わるのを日常的に見る。

 自分の周りの人たちとのささやかな交流のなかに感じる人の温もり。そんな日々の充実が心の治療になっている。

 心にポッカリ開いた穴はそう簡単に埋まらないのかもしれない。でも、いつか、それがたくさんの愛で埋め尽くされたとき―。

 彼女はきっと両親に会いに行くだろう。年老いた両親に、優しい言葉をかけてあげることができるだろう。

 愛し、愛されるだけが愛じゃない。大きな愛は許すことだと信じたい。ユキさんならそれができる。きっと。

(無断転載禁止)

   

サークル・ダルメシアンのメンバー      
枝川淳一(Dr) 岡田ユキ(Vo) 岸真澄(Gt) 垣内裕志(B) ふぃ〜びぃ〜(犬)

文/川上典子

取材/堀ノ内雅一

撮影/高野 博


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